下北沢は今では「若者の街」と呼ばれることが多いですが、そのイメージは時と共に変わってきています。ここではその変遷を簡単に辿ってみましょう。
戦前や戦後間もない頃にまで遡れば、萩原朔太郎、坂口安吾、横光利一を初めとする詩人や文豪が集い語らい合い、街全体が文士のサロン的な場であったようです。朔太郎の短編小説「猫町」には下北沢に多かった猫が描かれていますが、室生犀星、井上靖、田村泰次郎、一色次郎なども猫に負けじと下北沢に通ったようです。坂口安吾は代沢小学校で教鞭をとり、下北周辺の光景は『風と光と二十の私と』に描かれています。学者であり時の流行作家「佐藤弘人(サトウヒロンド)」も下北沢の人でした。また下北沢は、戦前から将校クラスの軍人や高級官僚が多く住む街でもあって、政治家では佐藤栄作、竹下登、それに戦前の東条英機も含めると、3人もの首相経験者が下北沢に居を構えていたことになります。今も、駅から少し離れると静かな住宅街になっています。
「駅前市場」は終戦直後の闇市を端緒としながらも、50年代から輸入品を扱う店も多かったため、庶民的であると同時におしゃれなイメージももたらし、60年代には「買い物の主婦が主役」の街として新聞で紹介されています。ジャズ喫茶「マサコ」は、実に50年代半ばからの歴史を持つ店で、当時から文化的な香りを発信していました。70年代に入るとピンクサロンがひしめくようになり、「大都会のピンク街」という呼ばれ方をされた時期もありますが、現在ではその面影はほとんどありません。
多くの若者が集まり始めたのは、70年代半ば以降のことで、ロック、ジャズ、ブルースなどを流すバーが続々と登場。75年に「レディ・ジェーン」「下北沢ロフト」がオープンし、79年に開催された「下北沢音楽祭」が、「若者の街」というイメージを定着させるきっかけとなりました。下北沢には、その「下北沢音楽祭」にも出演した金子マリ、カルメン・マキをはじめとする多くのロック・アーティストが暮らし、音楽活動を行ってきたという歴史もあります。現在でもライブハウスやレコード・CDショップの数は増える一方で、音楽はまさしく下北沢の文化を象徴する大きなポイントだといってよいでしょう。そして1982年に元俳優だった本多一夫氏が本多劇場をオープンし、街のあちこちに小劇場を作ってからは、一躍「演劇の街」としても注目されるようになり、その活況は世紀をまたいで今に続いています。
一方、山の手で隋一といわれる御神輿がでることでも有名な北澤八幡、富士塚は取り壊されてしまいましたが針供養などで有名な森巖寺、そして天狗のお面が奉納されている真龍寺など、古くからの伝統を伝える施設も街のあちこちに残っています。
こうして下北沢は、数々の変遷を辿りながら、現在のように山の手の下町と呼ばれる、独特の雰囲気を醸し出す雑然とした魅力を放つようになったのです。