3.小田急線高架問題の長い歴史(後編)
◆地下化隠しと運動の分断
ところで、1990年8月の第3セクターの設立にむけて、東京都は、今まで喜多見から東北沢まで一体として扱われてきた小田急線の事業のうち、下北沢地域(東北沢から世田谷代田)のみを切り離し後回しにすることを表明、下北沢については「高架か地下か未決定」とされ、高架が計画されている梅ヶ丘~喜多見の区間と切り離されて扱われるようになってしまいます。
この切り離しは、すでに下北沢地域の鉄道の地下化方針を決めた行政が、下北沢地域を切り離すことによって、梅ヶ丘駅~成城学園駅手前までの高架計画を強引に推し進めるために行った措置でありました。成城学園駅はすでに地下化を決めていましたので、下北沢地域が地下化ということが公式に決まってしまえば、間の区間を高架にするというのは誰の目から見ても不合理になるからでした。
また、高架複々線化事業は全線完成後に大量に増発する列車交通量とスピードアップがなされることによって騒音環境を劣悪なものとすることは目に見えています。下北沢地区と切り離し、地下化の下北沢地区を後回しにすれば、高架複々線区間の列車交通量もスピードアップもさほど実現できないわけですから、この区間のみの環境アセスを通すには都合がよいということになります。さらに言えば、市民運動のエネルギーを分断することも狙えるわけです。
◆「調査報告書」開示勝利と細川政権下のラウンドテーブル
市民運動の面では、1991年に梅ヶ丘駅・喜多見駅間の連立事業の「素案」説明会が始まったのを受けて、新しく「小田急線の地下化を実現する会」が結成され、地域で運動を再構成するようになります。市民運動の側は、官側が秘匿した調査報告書の公開を求め、世田谷区と東京都に対して情報開示訴訟も起こし闘うようになっていきます。連続立体交差事業を実施するときは、国庫補助のついた事業調査が義務付けられています。国が定めた「連続立体交差事業調査要綱」に従い、構造形式(高架か地下か)の費用比較や沿線の再開発計画や高架下や地下化の跡地の利用方法も含めた関連事業調査、さらには総合アセスメントを含む基礎調査をしなければなりません。1987、88年度の2カ年に行われた調査報告書を、東京都は公開しようとしませんでした。
おりしも1993年、いわゆる「55年体制」が崩壊し、細川政権が発足します。建設大臣に、社会党出身の五十嵐大臣が就任します。市民側の細川政権への要請署名運動を経て、五十嵐大臣は11月「隠している情報をオープンにして、住民と話し合うように」と東京都に勧告します。この勧告が功を奏し、年の瀬に市民側専門家と東京都がラウンドテーブルにつき高架・地下の比較検証作業を行うことが合意され、翌94年には準備作業を経てラウンドテーブルが始まろうとしていました。1月、係争中の情報公開訴訟で東京地裁は東京都に同調査報告書の基本部分についての情報開示の和解を勧告します。それを受け3月には調査報告書が公開されました。
しかし、ラウンドテーブルは開始されましたが、細川政権があえなく崩壊してしまい、意図したような形でのラウンドテーブルは露と消えてしまったのです。そして、羽田政権の成立直後、梅ヶ丘から喜多見までの高架計画は事業認可されてしまいました。
◆2つの勝利判決と司法の逆進
この認可の違法を争った訴訟が、小田急線の事業認可取り消し訴訟でした。
2001年10月3日の東京地裁判決は、環境影響を受ける周辺住民の原告適格は認めなかったものの側道の地権者に事業全体の原告適格を認めた上で、都市計画事業の違法を認定し、その取り消しを命ずるという画期的なものでした。
2審は逆転敗訴となりましたが、その後、最高裁は大法廷を開いて画期的な原告適格判決を下しました。大法廷判決は、原告適格を環境等の影響を受ける者に大幅に広げ、都市計画法を環境法として認め、役人の裁量を統制・規制する方向で書かれており、行政訴訟の大転換を予兆させるものでありました。しかしながら、大法廷判決の判例変更による原告適格拡大ののちに下された小法廷判決は、2審の高裁判決を追認し、役人の裁量を大幅に認めるというものでした。これは司法の逆進にほかなりません。
各級の判決ともニュースでも大きく取り上げられましたが、この訴訟は環境行政訴訟の最先端で争われてきた訴訟といえるでしょう。下北沢の訴訟が提訴できたのは小田急訴訟大法廷判決の原告適格の拡大に依っています。役人の裁量を法がキチンと統制・規制していく。このことを裁判所に認めさせるための法廷内外の運動が今こそ必要とされています。
◆調査報告書の下北沢部分は黒塗りだった!
1994年3月に連続立体交差事業調査報告書が公開されたというお話をしましたが、このとき公開されたのは梅ヶ丘駅から喜多見駅までの構造形式の比較という基本調査部分のみで、下北沢地域と関連事業部分は黒塗りでした。都市計画決定がまだだから、というのがその理由とされました。
しかしながら、基本部分の公開だけでも画期的なものでした。都市計画の調査段階での基礎情報の秘とくは日常茶飯事でした。これこそ、官が市民に対していつでも優位に立てる装置の一つです。黒塗りの部分があったにせよ基本部分の公開のみで裁判の和解に応じたのは、それだけでも高架計画の誤りを論証しえたからです。また、ラウンドテーブル実現を目前に、情報の取得は一刻を争っていたという事情もありました。この和解は、「勝利的和解」とマスコミ各紙から評価されました。また、ニューヨークタイムスはトップ記事でこれを取り上げ、「日本の行政の秘密の壁が崩れ始めている」と報じてくれました。
黒塗り部分は2000年に全部公開となりました。これを読むと、(*)下北沢の地下化方針は、報告書がまとめられた1989年3月にはすでに決まっていたことがわかります。
(*)調査報告書の結論には「下北沢地区を今後検討する地域とする」と書かれていますが、構造形式での比較検討の箇所では地下化方式を取ることが結論となっています。また、関連事業の計画は下北沢の地下化を前提として組み立てられています。
【関連サイト】
もぐれ小田急線:http://www.bekkoame.ne.jp/~fk1125/
(「小田急高架と街づくりを見直す会」ホームページ)
(クヤマ)