さる07年11月23日、セイブ有志で集まって勉強会を開きました。下北沢の再開発問題ってすごく複雑だし、運動の展開もユニークです。だから、メンバーがいろいろと気になることを調べてきて発表しあえば、自分たちのむきあっている問題についてより深く知ることができるはず…。そんな思惑のもとに、勉強会を開くことにしたんです。
第一回のテーマは、「小田急線跡地問題と連続立体交差事業」。プレゼンターは、小田急線沿線の再開発の問題をずっと追って来られた世田谷区議会議員・木下泰之さんです。議論は、「下北沢再開発問題の起源はなんと1960年代にあった!」というところから、「小田急が地下になったあとの地上を公共利用できないか?」というところまで及びました。
勉強会での話の内容を、これから全5回にわたってスタッフブログでお届けします。
ちょっと難しい政治のお話になりますが、ご興味のある方はぜひ読んでくださいね。
1.小田急線高架問題の長い歴史(前編)
◆45年前から始まった小田急問題
今を去ること45年前、1962年の運輸省都市交通審議会は、現在の千代田線を代々木八幡から淡島通り・世田谷通りを経由して喜多見で小田急線と接続する地下鉄を新たに作る計画を答申しました。東京郊外の住宅地化が進んだため、京王線や西武線を含めて地下鉄網を郊外まで延ばそうという計画があったからです。
しかし、この計画を聞いた私鉄各社は嫌がります。なぜなら、郊外から別線である地下鉄に分岐しては、お客を地下鉄に取られてしまい経済的なダメージを受けると考えたからです。そこで、小田急を筆頭に私鉄各社は地下鉄を自分たちの鉄道に作ってほしいと運輸省に圧力をかけました。運輸省運輸政策審議会はそれを受け入れ、千代田線は小田急線と代々木上原で合流し、喜多見まで千代田線は小田急線に張り付いて走る計画に答申を変更し、1964年12月には、この変更に基づき都市計画決定がなされます。
その後、1969年に建設省と運輸省が協定を結び、都市部における私鉄を立体化するために道路特定財源(ガソリン税等)を使って行う制度を確立しました。これがいわゆる「建運協定」(正しくは「都市における道路と鉄道との連続立体交差化に関する協定」)と呼ばれるものです。
◆建運協定と世田谷区議会の地下化決議
小田急線の複々線化の事業は、「建運協定」に基づく「線増(複々線化)連続立体交差事業」という政府資金(道路特定財源)による公共事業という枠組みを得て、初めて動き出すことになるのです。
このとき、小田急側は下北沢も含めて「高架複々線化」を提案しました。しかし、すでに1967年には東京都は美濃部革新都政となっており、また1968・9年の学生運動等の激動の年を経て、1970年は公害国会の年でもありました。環境問題について人々の関心が高まる中、騒音被害や日照被害に反対するため、小田急線の高架反対運動は盛り上がりを見せました。下北沢地域は、その運動の中心でした。
1970年9月に地下化を求める約3万5200名の請願署名が区議会に提出され、この請願署名を受け、同年12月に世田谷区議会は全会派一致で地下化決議をあげ、東京都や国に世田谷区内を通る高速鉄道の複々線化は地下化で行うことを要望しました。
危機感を感じた高架推進派は高架促進を都知事に陳情し、5月に「小田急工事対策会」を発足させます。また、同時期に地下化推進派は、下北沢の一番街商店街を中心に沿線住民も加わって「緑と太陽を守る小田急地下鉄化推進の会」(後に「小田急沿線住民の環境を守る会」(筧勇一会長)となる)を結成します。1972年3月には代々木上原駅を高架複々線とする工事が着工され、7月には日本列島改造論を引っさげて田中角栄内閣が登場しています。不動産開発ブームが訪れましたが、地下化推進運動の動きは活発で、1973年2月には「東北沢地域住民の環境を守る会」が、11月には「土地不売同盟」が発足するなどし、署名を集め区議会や東京都に請願を繰り返したところ、世田谷区議会は同年11月に再度地下化決議を全会派一致であげるというところとなりました。
こうした動きの中、世田谷区内の高架化に向けた活発な動きはしばし鎮静化していきました。
◆高架・地下の問題が下北沢の主要問題だった
ところで、なぜ鉄道を高架にすることが問題なのでしょう?それは、何よりも高架になると、騒音が鉄道運線の住宅地にばらまかれ、日照被害も与える等、住環境の面で大きな問題があるからです。
連続立体交差事業は踏切解消のための事業と思われがちですが、ガソリン税等の道路特定財源を投入して、鉄道を高架あるいは地下化にし、合わせて鉄道に交差する道路を増やし、なおかつ駅前にロータリーを作ったり駅ビルを建てたり、周辺を高層化していくことがセットにして計画されている事業なのです。
当時はそのような正確な認識が運動側になかったのは確かですが、電鉄側が主張する高架計画をそのまま通してしまうことは、電鉄主導の(実際は行政主導でもあるのですが、当時はそうおもわれていました。)駅前の大規模再開発をそのまま認めることになります。下北沢では小田急電鉄が井の頭線の上を地上23mで交差する高架事業計画を提示したこともあり、小田急資本の大規模駅ビルに下北沢の商店主たちは反対していました。
また、当時は、連続立体交差事業で地下化の例はほとんどなく、高架実施の圧力が強かったということもあり、高架計画を転換させることで環境重視の都市計画に全体を転換させるという漠然とした展望を運動側は持っていました。
下北沢一番街商店街等は1987年に補助54号線の凍結決議をあげていますが、商店主や住民のもっぱらの関心は小田急線が高架になるか地下になるかでした。
※写真は1987年(昭和62年)発表の「下北沢都市高速鉄道9号線(小田急電鉄小田原線)の高架化・複々線化計画について(東北沢~和泉多摩川駅間)」(小田急電鉄株式会社)に記載されている、下北沢高架化の鉄道計画図。クリックすると大きな写真が開きます。
【関連サイト】
もぐれ小田急線:http://www.bekkoame.ne.jp/~fk1125/
(「小田急高架と街づくりを見直す会」ホームページ。かなり詳細な情報が載っています。)
連続立体交差事業についての解説:http://www.stsk.net/situation/renzoku.html
(「セイブ・ザ・下北沢」のホームページ)
(クヤマ)

