2.小田急線高架問題の長い歴史(中編)
◆大規模再開発事業としての連続立体交差事業
美濃部都政時代は世田谷区議会の地下化決議もあって、計画は止まっていましたが、1979年に鈴木都知事にかわり、1982年に中曽根首相の時代になると、小田急線を高架にしようという動きは再び活発になります。1985年のプラザ合意を背景とした内需拡大を求める風潮のなかで、政府の資金を公共事業に回そうとする動きがさかんになったためです。
当時、都内の私鉄の在来線全線を立体化・複々線化し、都心から近郊にかけて道路を碁盤の目のように整備し、それぞれの拠点駅周辺に超高層ビル開発を進めることが政府によって重点的に目指されるようになりました。当時、ウォーターフロントとして臨海部再開発が注目されましたが、一挙に行われるこの連立化事業計画はいわば「レールフロント」として作用させようとされていたのです。既存市街地の再開発には巨大な金が動く宝の山でもありました。
政府は事前に法と制度を整備してゆきます。1986年には私鉄の複々線化事業を利用客の運賃値上げで資金をまかなう「特定都市鉄道特別措置法成立」が成立。一方、1987年の電電公社のNTTへの民営化は10兆円もの売却利益を上げます。本来は国債の償還に充てるべきこの金を、中曽根政権はNTT資金法を作り、内需拡大と称して不動産開発事業にばらまき始めます。
その流れのなかで、1990年には、「東京鉄道立体整備株式会社」という第3セクターが設立され、これを受け皿にNTT株売却資金をも導入し、銀行、生保、損保の資金等の民間資本をも導入して、都心から近郊にかけての大規模再開発に踏み出そうとします。その最初の試みが小田急線の線増(複々線化)連続立体事業であり、西武池袋線の線増連続立体交差事業であったわけです。小田急沿線では経堂駅周辺と下北沢駅周辺が、西武池袋沿線では練馬駅周辺が超高層ビル群建設を含む大規模再開発地域として選ばれていました。
◆第3セクター「東京鉄道立体整備」への住民訴訟
この第3セクター設立に反対することで、市民運動の動きも再び活発になります。これまでの市民運動は小田急沿線の住民が中心でしたが、今回はもっと幅広く、東京の大規模再開発を見直そうとする動きにつながります。「東京鉄道立体整備株式会社」は、高架と抱き合わせの超高層大規模再開発の事業計画を全面に立ててその設立が宣言されていました。第3セクター設立にあたり、世田谷区や練馬区(西部池袋線の連立事業を抱えていた)、東京都が出資の臨時予算案を計上しましたので、市民運動はこの設立に反対し「行政は同社に支出するな」との論陣を張り、アクションを起こしました。
設立は1990年8月でしたが、9月に世田谷区は1億円の同社への出資予算を議会に提出します。福祉予算が抱き合わせなのを言い訳にしながら、それまでは高架に反対していた革新系各会派も1990年9月臨時予算に賛成してしまいます。既に保守系会派は高架計画に賛成していましたので、1990年9月をもって、全会派が高架計画を容認する事態に至ります。
市民運動側は世田谷区民・練馬区民を中心に「鈴木都政の都市計画をただす会」を結成します。9月に支出取り消しの監査請求を世田谷区、練馬区、東京都におこし、同年12月より「住民訴訟」として裁判を展開することになります。この裁判は裁判自体としては、いわゆる門前払いという形で敗訴しますが、法廷の論戦を通じて、バブル期の絶頂期に大規模再開発計画の縮小を実現させるという快挙を成し遂げています。同時に、3審とも前払い判決を受け、敗訴はしたものの、一審判決では判決文の中で地下化の優位性を認めさせるという成果も得、またこの訴訟を通じて各分野の専門家を市民側に結集することにも成功し、後の認可取り消し訴訟での一審勝訴への大きなステップとなっていきます。
そして、最終的には2000年にいたって第3セクターは事業成果をあげることもなく解散してしまうことになります。事実上、市民側は大勝利をえたのでした。
【関連サイト】
もぐれ小田急線:http://www.bekkoame.ne.jp/~fk1125/
(「小田急高架と街づくりを見直す会」ホームページ)
(クヤマ)

