勉強会をやりました【その4】

「小田急線跡地問題と連続立体交差事業」をテーマとして開催した
勉強会の報告です。
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4.高架再開発計画と世田谷区

◆小田急線の高架計画をあおった川上委員会
小田急電鉄が下北沢の高架計画のパンフレットまで作って、高架計画を推進しようとしていた1985年頃、世田谷区も小田急線の意向に沿い、高架計画を推進しようとしていたのです。

1986年、世田谷区は東大教授で全国の連立事業に深くかかわっている川上秀光氏を委員長に「小田急沿線街づくり協議会」(通称・川上委員会)をつくり、同年10月には中間報告を、1987年6月には最終報告をまとめています。

この調査報告書は下北沢の街づくり計画の検討を主軸に行い、地下化の可能性も匂わせながら、全体的には「東北沢駅・喜多見駅間の地下鉄化は高架化の1.4倍から1.6倍の費用がかかる」という結論を出し、「高架化やむなし」の世論をつくろうとしていました。

1987年4月には東京都実施の連立事業調査が始まりました。この調査が秘匿されることになるのとは裏腹に、川上委員会の報告書は広くばらまかれて、世田谷区民や区議会の世論づくりに利用されました。


◆以西のみ高架とし大規模再開発のターゲットを経堂駅に移す
川上委員会のレポートの効果は絶大でした。それまで区議会は公式には「地下化推進」でしたが、当時の革新勢力も含めて、高架化やむなしの方向に世論は誘導されていきます。そして、下北沢地区は切り離され、第3セクター・東京鉄道立体株式会社の高架での事業方針を追認する形で、全会派が梅ヶ丘駅から成城学園駅手前(なぜか、成城学園駅付近のみ地下化)までの高架化を容認することとなっていくのです。

後に全面的に開示された調査報告書を読めば、川上委員会の報告書は下北沢の地下化への転換をも示唆していたことがよくわかります。

ここに下北沢地域の運動の栄光と暗展が隠されています。下北沢地区の根強い運動に譲歩し行政は下北沢地区では地下化方針に転換しました。しかし同時に、行政は当面の超高層再開発の拠点を経堂駅周辺地区に切り替えたのです。


◆地下化への転換を隠して12年
しかしながら、この転換を行政は下北沢の商店会や町会にさえ、公式には伝えることはできませんでした。なぜならば、行政は地下化は無理であると言い続け、地下化でまとまっていた世論に分裂をもたらした張本人であったからです。

以後、下北沢の鉄道の構造形式については、公式には「未定」ということになったわけです。ですので、本来なら下北沢の小田急線事業が地下化に決まった時期から上部利用についても検討されるべきでしたが、それはなされることなく今日まで来てしまいました。


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※写真は、川上委員会のレポート。

(クヤマ)