「勉強会」 に関する過去の記事

2008年02月10日

勉強会をやりました【その5】



5.下北沢の小田急線地下化跡地はどうなるの?

◆小田急線跡地は公共利用が優先
小田急線の地上部分は小田急電鉄が勝手に利用計画を立ててよいものだ、と思っている人が圧倒的に多いと思います。しかし、(*)小田急線の連立事業は税金(道路特定財源)や乗客への上乗せ料金、超低利の公的融資を使って行われる都市計画事業であり、公共事業なのです。

(*)この事情については、「まもれ!シモキタ通信 4号」に掲載した「小田急線連立事業は公共事業 跡地利用は行政=市民にあり」をお読みください。

公共事業である以上、敷地の利用方法にはルールが定められています。連立事業をつかさどるルールは国が定めた「建運協定」(都市における鉄道と道路の連続立体交差に関する協定)に基づいています。

この「建運協定」によれば、跡地のうち在来線部分の15%分の面積は、鉄道事業上不可欠な用地は除いて公共側(都、国、世田谷区)が自由に使え、そのほかは複々線部分も含めて使用料を払うことを条件に、公共側が優先使用できることになっているのです。


◆行政は跡地に何を作ろうとしているのか?
2000年の東京都の調査報告書は2003年10月に開示されましたが、この調査報告書には、小田急線の地下化後の跡地利用について、いくつかの事項が書き込まれています。

まず、巻末には小田急線の跡地上に幅広い緑道を取る絵が書き込まれています。また、鉄道跡地の利用計画として、「地域行事のイベント広場の整備、情報受発信基地としての創作広場、この創作広場には演劇の町の一環を担う野外劇場」という記述もなされています。さらには、「駅前広場及びその他の地下部分に耐水性貯水槽の設置」ともかかれています。

また、下北沢駅整備イメージ図には、下北沢駅から鎌倉通りにかけてと駅から茶沢通りにかけて、「モール型商店街の誘導」と書かれていることも特筆すべきでしょう。


◆行政は、今こそ、すべてを明らかにして、転換を
行政が跡地利用の方法について、区民に対してオープンに議論をしてこなかったことは問題です。行政は小田急線連立事業や下北沢の街づくりにおいて、権力の甘い汁をちらつかせ、あるいは権力を笠に着て情報を操作し、あるいは行政情報をうのみにすることを強いてきました。このような姿勢を転換させることが何よりも必要です。既に手に入れた基礎調査報告書などの基礎資料を市民側が十分読み込んでお役人と時間の制約なく話し合えば、真実はおのずとわかるはずです。ごくまっとうな手続きさえ区の役人が保証すれば、下北沢の街づくりの問題は方向性が見えてくるはずです。役人のこれまでの誤りはすでに集めた各種資料でも明らかですが、このことは裁判を通じてより明らかにされ、行政側を追い込んでいくことになるでしょう。そうであればこそ、ラウンドテーブルの可能性は、ありうるというべきでしょう。

ラウンドテーブルが実現するかどうかは、極めて政治的な状況情勢が左右することも否めません。裁判と並行して、ラウンドテーブルの可能性がないわけではありません。もし、まっとう対等な対話の場が保障されるならばラウンドテーブルはすぐ始められるし、既に跡地利用について公的文書に囲い込まれている事案を一つ一つ検討していくだけでも、行政の考え方を少なくとも理解することは出来ます。問題は小田急電鉄の望む商業施設ですが、これも情報がオープンにされた方がよいでしょう。公共側のビジョンと電鉄側のビジョン。連続立体事業での費用負担の状況、受益者負担金の根拠、そういったものを洗いざらい提示した上で、街の在り方を考えることが必要なのではないでしょうか。


【関連サイト】
シモチカナビ:http://www.shimochika-navi.com/
(小田急電鉄による、地下化工事の情報提供サイトです)


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※写真は、小田急線地下化工事の模様です。


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以上で、5回にわたってお届けしてきた「第一回勉強会」のご報告は終わりです。

その後も、下北沢再開発問題や市民運動について、一歩踏み込んで研究する勉強会を連続して行っています。

次回の勉強会は、下北沢再開発問題のこれまでの市民運動の経緯や運動の主張について分析するものになります。「セイブ・ザ・下北沢」に所属する社会学系の大学生・大学院生が執筆した卒業論文・修士論文の発表会も兼ねています。

今回の勉強会は、下北沢の古本カフェ「気流舎」で行います。
どなたでもご参加できますので、ご興味をお持ちの方は是非お越し下さい。

日時:2008年2月16日(土)午後7時〜9時半
会場:気流舎 http://www.kiryuusha.com/
地図はこちら
料金:無料(ワンオーダーお願いします)
(参加を希望される方は、事前にinfo@stsk.netまでご連絡ください。)


(くやま)

2008年01月26日

勉強会をやりました【その4】

「小田急線跡地問題と連続立体交差事業」をテーマとして開催した
勉強会の報告です。
【その1】はこちらからご覧ください。
【その2】はこちらからご覧ください。
【その3】はこちらからご覧ください。



4.高架再開発計画と世田谷区

◆小田急線の高架計画をあおった川上委員会
小田急電鉄が下北沢の高架計画のパンフレットまで作って、高架計画を推進しようとしていた1985年頃、世田谷区も小田急線の意向に沿い、高架計画を推進しようとしていたのです。

1986年、世田谷区は東大教授で全国の連立事業に深くかかわっている川上秀光氏を委員長に「小田急沿線街づくり協議会」(通称・川上委員会)をつくり、同年10月には中間報告を、1987年6月には最終報告をまとめています。

この調査報告書は下北沢の街づくり計画の検討を主軸に行い、地下化の可能性も匂わせながら、全体的には「東北沢駅・喜多見駅間の地下鉄化は高架化の1.4倍から1.6倍の費用がかかる」という結論を出し、「高架化やむなし」の世論をつくろうとしていました。

1987年4月には東京都実施の連立事業調査が始まりました。この調査が秘匿されることになるのとは裏腹に、川上委員会の報告書は広くばらまかれて、世田谷区民や区議会の世論づくりに利用されました。


◆以西のみ高架とし大規模再開発のターゲットを経堂駅に移す
川上委員会のレポートの効果は絶大でした。それまで区議会は公式には「地下化推進」でしたが、当時の革新勢力も含めて、高架化やむなしの方向に世論は誘導されていきます。そして、下北沢地区は切り離され、第3セクター・東京鉄道立体株式会社の高架での事業方針を追認する形で、全会派が梅ヶ丘駅から成城学園駅手前(なぜか、成城学園駅付近のみ地下化)までの高架化を容認することとなっていくのです。

後に全面的に開示された調査報告書を読めば、川上委員会の報告書は下北沢の地下化への転換をも示唆していたことがよくわかります。

ここに下北沢地域の運動の栄光と暗展が隠されています。下北沢地区の根強い運動に譲歩し行政は下北沢地区では地下化方針に転換しました。しかし同時に、行政は当面の超高層再開発の拠点を経堂駅周辺地区に切り替えたのです。


◆地下化への転換を隠して12年
しかしながら、この転換を行政は下北沢の商店会や町会にさえ、公式には伝えることはできませんでした。なぜならば、行政は地下化は無理であると言い続け、地下化でまとまっていた世論に分裂をもたらした張本人であったからです。

以後、下北沢の鉄道の構造形式については、公式には「未定」ということになったわけです。ですので、本来なら下北沢の小田急線事業が地下化に決まった時期から上部利用についても検討されるべきでしたが、それはなされることなく今日まで来てしまいました。


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※写真は、川上委員会のレポート。

(クヤマ)

2008年01月17日

勉強会をやりました【その3】

3.小田急線高架問題の長い歴史(後編)


「小田急線跡地問題と連続立体交差事業」をテーマとして開催した
勉強会の報告です。
【その1】はこちらからご覧ください。
【その2】はこちらからご覧ください。


◆地下化隠しと運動の分断
ところで、1990年8月の第3セクターの設立にむけて、東京都は、今まで喜多見から東北沢まで一体として扱われてきた小田急線の事業のうち、下北沢地域(東北沢から世田谷代田)のみを切り離し後回しにすることを表明、下北沢については「高架か地下か未決定」とされ、高架が計画されている梅ヶ丘~喜多見の区間と切り離されて扱われるようになってしまいます。

この切り離しは、すでに下北沢地域の鉄道の地下化方針を決めた行政が、下北沢地域を切り離すことによって、梅ヶ丘駅~成城学園駅手前までの高架計画を強引に推し進めるために行った措置でありました。成城学園駅はすでに地下化を決めていましたので、下北沢地域が地下化ということが公式に決まってしまえば、間の区間を高架にするというのは誰の目から見ても不合理になるからでした。

また、高架複々線化事業は全線完成後に大量に増発する列車交通量とスピードアップがなされることによって騒音環境を劣悪なものとすることは目に見えています。下北沢地区と切り離し、地下化の下北沢地区を後回しにすれば、高架複々線区間の列車交通量もスピードアップもさほど実現できないわけですから、この区間のみの環境アセスを通すには都合がよいということになります。さらに言えば、市民運動のエネルギーを分断することも狙えるわけです。


◆「調査報告書」開示勝利と細川政権下のラウンドテーブル
市民運動の面では、1991年に梅ヶ丘駅・喜多見駅間の連立事業の「素案」説明会が始まったのを受けて、新しく「小田急線の地下化を実現する会」が結成され、地域で運動を再構成するようになります。市民運動の側は、官側が秘匿した調査報告書の公開を求め、世田谷区と東京都に対して情報開示訴訟も起こし闘うようになっていきます。連続立体交差事業を実施するときは、国庫補助のついた事業調査が義務付けられています。国が定めた「連続立体交差事業調査要綱」に従い、構造形式(高架か地下か)の費用比較や沿線の再開発計画や高架下や地下化の跡地の利用方法も含めた関連事業調査、さらには総合アセスメントを含む基礎調査をしなければなりません。1987、88年度の2カ年に行われた調査報告書を、東京都は公開しようとしませんでした。

おりしも1993年、いわゆる「55年体制」が崩壊し、細川政権が発足します。建設大臣に、社会党出身の五十嵐大臣が就任します。市民側の細川政権への要請署名運動を経て、五十嵐大臣は11月「隠している情報をオープンにして、住民と話し合うように」と東京都に勧告します。この勧告が功を奏し、年の瀬に市民側専門家と東京都がラウンドテーブルにつき高架・地下の比較検証作業を行うことが合意され、翌94年には準備作業を経てラウンドテーブルが始まろうとしていました。1月、係争中の情報公開訴訟で東京地裁は東京都に同調査報告書の基本部分についての情報開示の和解を勧告します。それを受け3月には調査報告書が公開されました。

しかし、ラウンドテーブルは開始されましたが、細川政権があえなく崩壊してしまい、意図したような形でのラウンドテーブルは露と消えてしまったのです。そして、羽田政権の成立直後、梅ヶ丘から喜多見までの高架計画は事業認可されてしまいました。


◆2つの勝利判決と司法の逆進
この認可の違法を争った訴訟が、小田急線の事業認可取り消し訴訟でした。
2001年10月3日の東京地裁判決は、環境影響を受ける周辺住民の原告適格は認めなかったものの側道の地権者に事業全体の原告適格を認めた上で、都市計画事業の違法を認定し、その取り消しを命ずるという画期的なものでした。

2審は逆転敗訴となりましたが、その後、最高裁は大法廷を開いて画期的な原告適格判決を下しました。大法廷判決は、原告適格を環境等の影響を受ける者に大幅に広げ、都市計画法を環境法として認め、役人の裁量を統制・規制する方向で書かれており、行政訴訟の大転換を予兆させるものでありました。しかしながら、大法廷判決の判例変更による原告適格拡大ののちに下された小法廷判決は、2審の高裁判決を追認し、役人の裁量を大幅に認めるというものでした。これは司法の逆進にほかなりません。

各級の判決ともニュースでも大きく取り上げられましたが、この訴訟は環境行政訴訟の最先端で争われてきた訴訟といえるでしょう。下北沢の訴訟が提訴できたのは小田急訴訟大法廷判決の原告適格の拡大に依っています。役人の裁量を法がキチンと統制・規制していく。このことを裁判所に認めさせるための法廷内外の運動が今こそ必要とされています。


◆調査報告書の下北沢部分は黒塗りだった!
1994年3月に連続立体交差事業調査報告書が公開されたというお話をしましたが、このとき公開されたのは梅ヶ丘駅から喜多見駅までの構造形式の比較という基本調査部分のみで、下北沢地域と関連事業部分は黒塗りでした。都市計画決定がまだだから、というのがその理由とされました。

しかしながら、基本部分の公開だけでも画期的なものでした。都市計画の調査段階での基礎情報の秘とくは日常茶飯事でした。これこそ、官が市民に対していつでも優位に立てる装置の一つです。黒塗りの部分があったにせよ基本部分の公開のみで裁判の和解に応じたのは、それだけでも高架計画の誤りを論証しえたからです。また、ラウンドテーブル実現を目前に、情報の取得は一刻を争っていたという事情もありました。この和解は、「勝利的和解」とマスコミ各紙から評価されました。また、ニューヨークタイムスはトップ記事でこれを取り上げ、「日本の行政の秘密の壁が崩れ始めている」と報じてくれました。

黒塗り部分は2000年に全部公開となりました。これを読むと、(*)下北沢の地下化方針は、報告書がまとめられた1989年3月にはすでに決まっていたことがわかります。
 
(*)調査報告書の結論には「下北沢地区を今後検討する地域とする」と書かれていますが、構造形式での比較検討の箇所では地下化方式を取ることが結論となっています。また、関連事業の計画は下北沢の地下化を前提として組み立てられています。


【関連サイト】
もぐれ小田急線:http://www.bekkoame.ne.jp/~fk1125/
(「小田急高架と街づくりを見直す会」ホームページ)


(クヤマ)

2008年01月12日

勉強会をやりました【その2】

2.小田急線高架問題の長い歴史(中編)


「小田急線跡地問題と連続立体交差事業」をテーマとして開催した勉強会の報告です。
【その1】はこちらからご覧ください。


◆大規模再開発事業としての連続立体交差事業
美濃部都政時代は世田谷区議会の地下化決議もあって、計画は止まっていましたが、1979年に鈴木都知事にかわり、1982年に中曽根首相の時代になると、小田急線を高架にしようという動きは再び活発になります。1985年のプラザ合意を背景とした内需拡大を求める風潮のなかで、政府の資金を公共事業に回そうとする動きがさかんになったためです。

当時、都内の私鉄の在来線全線を立体化・複々線化し、都心から近郊にかけて道路を碁盤の目のように整備し、それぞれの拠点駅周辺に超高層ビル開発を進めることが政府によって重点的に目指されるようになりました。当時、ウォーターフロントとして臨海部再開発が注目されましたが、一挙に行われるこの連立化事業計画はいわば「レールフロント」として作用させようとされていたのです。既存市街地の再開発には巨大な金が動く宝の山でもありました。

政府は事前に法と制度を整備してゆきます。1986年には私鉄の複々線化事業を利用客の運賃値上げで資金をまかなう「特定都市鉄道特別措置法成立」が成立。一方、1987年の電電公社のNTTへの民営化は10兆円もの売却利益を上げます。本来は国債の償還に充てるべきこの金を、中曽根政権はNTT資金法を作り、内需拡大と称して不動産開発事業にばらまき始めます。

その流れのなかで、1990年には、「東京鉄道立体整備株式会社」という第3セクターが設立され、これを受け皿にNTT株売却資金をも導入し、銀行、生保、損保の資金等の民間資本をも導入して、都心から近郊にかけての大規模再開発に踏み出そうとします。その最初の試みが小田急線の線増(複々線化)連続立体事業であり、西武池袋線の線増連続立体交差事業であったわけです。小田急沿線では経堂駅周辺と下北沢駅周辺が、西武池袋沿線では練馬駅周辺が超高層ビル群建設を含む大規模再開発地域として選ばれていました。


◆第3セクター「東京鉄道立体整備」への住民訴訟
この第3セクター設立に反対することで、市民運動の動きも再び活発になります。これまでの市民運動は小田急沿線の住民が中心でしたが、今回はもっと幅広く、東京の大規模再開発を見直そうとする動きにつながります。「東京鉄道立体整備株式会社」は、高架と抱き合わせの超高層大規模再開発の事業計画を全面に立ててその設立が宣言されていました。第3セクター設立にあたり、世田谷区や練馬区(西部池袋線の連立事業を抱えていた)、東京都が出資の臨時予算案を計上しましたので、市民運動はこの設立に反対し「行政は同社に支出するな」との論陣を張り、アクションを起こしました。

設立は1990年8月でしたが、9月に世田谷区は1億円の同社への出資予算を議会に提出します。福祉予算が抱き合わせなのを言い訳にしながら、それまでは高架に反対していた革新系各会派も1990年9月臨時予算に賛成してしまいます。既に保守系会派は高架計画に賛成していましたので、1990年9月をもって、全会派が高架計画を容認する事態に至ります。

市民運動側は世田谷区民・練馬区民を中心に「鈴木都政の都市計画をただす会」を結成します。9月に支出取り消しの監査請求を世田谷区、練馬区、東京都におこし、同年12月より「住民訴訟」として裁判を展開することになります。この裁判は裁判自体としては、いわゆる門前払いという形で敗訴しますが、法廷の論戦を通じて、バブル期の絶頂期に大規模再開発計画の縮小を実現させるという快挙を成し遂げています。同時に、3審とも前払い判決を受け、敗訴はしたものの、一審判決では判決文の中で地下化の優位性を認めさせるという成果も得、またこの訴訟を通じて各分野の専門家を市民側に結集することにも成功し、後の認可取り消し訴訟での一審勝訴への大きなステップとなっていきます。

そして、最終的には2000年にいたって第3セクターは事業成果をあげることもなく解散してしまうことになります。事実上、市民側は大勝利をえたのでした。


【関連サイト】
もぐれ小田急線:http://www.bekkoame.ne.jp/~fk1125/
(「小田急高架と街づくりを見直す会」ホームページ)


(クヤマ)

2008年01月06日

勉強会をやりました【その1】

さる07年11月23日、セイブ有志で集まって勉強会を開きました。下北沢の再開発問題ってすごく複雑だし、運動の展開もユニークです。だから、メンバーがいろいろと気になることを調べてきて発表しあえば、自分たちのむきあっている問題についてより深く知ることができるはず…。そんな思惑のもとに、勉強会を開くことにしたんです。

第一回のテーマは、「小田急線跡地問題と連続立体交差事業」。プレゼンターは、小田急線沿線の再開発の問題をずっと追って来られた世田谷区議会議員・木下泰之さんです。議論は、「下北沢再開発問題の起源はなんと1960年代にあった!」というところから、「小田急が地下になったあとの地上を公共利用できないか?」というところまで及びました。

勉強会での話の内容を、これから全5回にわたってスタッフブログでお届けします。
ちょっと難しい政治のお話になりますが、ご興味のある方はぜひ読んでくださいね。


1.小田急線高架問題の長い歴史(前編)
◆45年前から始まった小田急問題
今を去ること45年前、1962年の運輸省都市交通審議会は、現在の千代田線を代々木八幡から淡島通り・世田谷通りを経由して喜多見で小田急線と接続する地下鉄を新たに作る計画を答申しました。東京郊外の住宅地化が進んだため、京王線や西武線を含めて地下鉄網を郊外まで延ばそうという計画があったからです。

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